第20回 東美特別展「鳥海青児展」 | おすすめの展覧会バックナンバー | 美術商 丸栄堂 marueido(有限会社丸栄堂)は、高山辰雄(髙山辰雄)、平山郁夫を中心とした物故作家、下田義寛、竹内浩一、田渕俊夫、牧進の現存作家をはじめ、大家より新人まで幅広いラインアップを誇る、精選された日本の絵画の卸商です。

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第20回 東美特別展「鳥海青児展」 会期 平成28年10月14日(金)〜16日(日) 会場 東京美術倶楽部

図版:「ブラインドを降ろす男」100×73,5cm

「ブラインドを降ろす男」 100×73,5cm

鳥海青児

1902年 (明治35年)
3月4日鳥海力蔵、あぐりの二男三女の二男として神奈川県平塚に誕生。
1917年 (大正6年) 15歳
この頃、小遣いで油絵具を買って油絵を描き始めた。藤沢中学の絵画教師金子保(文展出品作家)に指導を受けた。逗子開成中学生だった所 宏を知る。所と共に鵠沼に住んでいた岸田劉生を訪ねる。「この頃、二科会でマティスの裸婦を見た。これがヨーロッパ近代絵画を見た最初であった。」(鳥海談)
1920年 (大正9年) 18歳
この頃、原精一の紹介で茅ケ崎南湖の萬鉄五郎に出会う。
1922年 (大正11年) 20歳
当時流行した姓名判断にしたがって正夫を改め青児と名のる。
1923年 (大正12年) 21歳
芦屋の義兄平林氏宅から関西大学に通学していたが、第1回春陽会入選発表の中に所 宏(中学時代の友人)の名を見つけて、刺激を受け翌年から春陽会に応募することを決意した。
1924年 (大正13年) 22歳
第2回春陽会に「洋女を配するの図」「平塚風景」が初入選した。
1925年 (大正14年) 23歳
春陽会の新進作家が結成した麓人社の会に入る。
横堀角次郎、三岸好太郎らと親交を結ぶ。
1926年 (昭和元年) 24歳
関西大学経済学部卒業。岸田劉生より冬菜の画号を贈られる。
1933年 (昭和8年) 31歳
ヨーロッパから帰国、春陽会会員に推挙される。
1939年 (昭和14年) 37歳
1月15日美川きよと結婚。この頃、日本の古美術の収集をはじめる。
1943年 (昭和18年) 41歳
春陽会退会、独立美術協会員に推挙され、この年から独立展に出品。
1945年 (昭和20年) 43歳
終戦を神奈川県伊勢原の農家で迎える。1月15日鎌倉雪の下に引越。
この頃、友人の所有の長次郎の「あやめ」の銘の茶碗を見たのがきっかけで陶器に関心を向けるようになった。
1947年 (昭和22年) 45歳
この頃、小山冨士夫、渋江二郎など古美術愛好家との交友がはじまる。
1952年 (昭和27年) 50歳
鎌倉から麻布飯倉片町に引越。古美術は平安朝の仮名(古筆)に興味をもつようになる。
1956年 (昭和31年) 54歳
「顔をかくす女」「家竝」にて第6回芸術選賞、文部大臣賞を受賞する。
1958年 (昭和33年) 56歳
第3回現代日本美術展「武装した馬(ピカドール)」出品。最優秀賞受賞。
1959年 (昭和34年) 57歳
第10回毎日美術賞受賞。第5回日本国際美術展に「ブラインドをおろす男」を出品。神奈川県立近代美術館で鳥海青児・野口弥太郎展が開催される。
1960年 (昭和35年) 58歳
京都金光寺境内にアトリエをこしらえる。暮から翌年にかけてペルー、メキシコなどを旅行した。
1963年 (昭和38年) 61歳
第14回秀作美術展「石だたみ」出品。
1964年 (昭和39年) 62歳
ブリヂストン美術館で鳥海青児の記録映画作成。この頃から古美術では墨跡(大燈国師の書など)に興味をもつ。
1966年 (昭和41年) 64歳
神奈川県近代美術館で回顧展。
1968年 (昭和43年) 66歳
この年「小説新潮」表紙画を担当。
1971年 (昭和46年) 69歳
東京セントラル美術館などで、鳥海青児展開催。
1972年 (昭和47年) 70歳
6月11日、パーキンソン氏病が悪化し、肺炎で死去。
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